炎川沿線

右手中指に黒い指輪をしたり、外したり。

友人の言葉がうれしかった話

悩みがあるとき、誰に話すかってすごく難しい。私が自分のセクシャリティに疑問を持ち始めたときも、誰にどう相談したら良いんだろうってすごく迷った。リアルの知り合いに自分のそういった話をするのは個人的にはかなりハードルが高かったのだけど、当時の恋人以外にひとりにだけ、自分がアセクシャルかもしれないという話を打ち明けた。そのときのことがかなり救いだったので、今回はその話を少しだけしたい。

プライベートな内容だし、最初は私と相手以外誰にも言わずに一人で(二人で)解決できるならそれが一番だと最初は思っていた。でも、途中で不安になった。私はこれまで自分がアセクシャルっぽいということを全然認識できなかった。人と感じ方が違うことに気付くのにものすごく時間がかかった。つまり、視点が偏っている。もし私がここで独りよがりな判断をして何か間違いを犯してしまったら?大事にしている相手を傷つけてしまうのでは? そう思うと、一人で考えて動くことがとても怖くなった。だから第三者の意見が欲しくて、「アロマアセクでない人(彼サイドの視点)」かつ「昔からの自分を知っている人」として学生時代の友人に恋人と自分の話をした。以下、友人をAと呼びます。

打ち明けた

アセクシャルという言葉をAはよく知らなかったんだと思う。だから、アセクシャルの意味が書いたリンクを送って、「私これっぽいかもしれないんだよね」とだけ、まずは伝えた。そして現況をざっくり伝えた。恋人とそれっぽい空気になったことはあるけどどうしても違和感があって最後までできなかったこと。お付き合いを始めてからずっとそういう行為に積極的になれなくて、ようやくしたキスもあまり嬉しくなかったこと。手を繋ぐことに対してはそんなに嫌じゃなくむしろ嬉しいかも…?と思ったけど、それ以上はどうも心地よく感じなかったこと。ここまでの感覚を踏まえてアセクシャルかもしれないと思って彼に伝えたこと。彼は今私が積極的に行為を望んでいないことは理解してくれていて、とりあえずは私の気持ちの整理を待ってもらっていること。ただ、「炎川とそういう行為をしたいと思っている」とははっきり伝えられていること。お別れした方がいい気がしていること。その他細かい諸々も、話せる範囲でぽつぽつと話をした。
(ちなみに。これはAには言わなかったけれど、彼のこの「したい」気持ちが「誰でも良いからしたい」ではなく愛情表現としての「したい」だってことは彼からちゃんと言葉で伝えてもらっていて、そこは私は痛いほど理解しているつもりです。だからこそ自分の気持ちに素直になることがとてもしんどかったのだけど、そのこと自体は嬉しくも感じていました。そこは補足しておきたい)

Aが言ってくれたこと

彼女は電話越しで長いこと唸っていた。ん〜〜〜〜難し〜〜〜、え〜〜〜〜、どうする〜〜〜??みたいな。それがこれまで一人で悩んでいた私と少し似ていて、こんなタイミングだけどちょっと笑ってしまったのを覚えている。私も外から見たらこんな感じで唸ってたんだろうな、って、ちょっとだけ冷静になれた。それだけでも話してよかったと思ったりした。

ほとんどの時間はふたりで唸っていて、こういうのはどう?とかこういう話はした?といった確認をしたり、こういう人もいるよね〜みたいな話をぽつぽつとした。少し前の話なので正確性には欠けるかもしれないが、彼女はざっくり下記のようなことを言ってくれたように思っている。個人的な話も含むので嘘を交えているし、Aの意見というよりは私の解釈と言った方がいいかも。意訳したものとして読んでいただきたい。

”私もそんなにベタベタしたいタイプじゃないから、正直そういう行為が無しでも良いって思える気がする。老夫婦みたいな、手を繋いで隣を歩いていくような関係性が理想だし。男性側がどうかはわからないけど、そこが重要じゃないって女性は炎川だけじゃなく多かれ少なかれいるんじゃない? 私の知人でも、恋人とそういう行為をするけど別に行為自体は好きじゃないって人を知ってるよ。行為への違和感ってことであれば、慣れていくこともあると思う。でも、炎川の話を聞いていると人よりその”度合い”が強そうだから、それがアセクシャルって可能性はあるのかもしれないね”

恋人だからって触れてたらいい、近けりゃいいってわけではなく、最適な距離感って人それぞれだと思う。好きな人ともちょっと離れていた方が心地良いって人もいるかもしれないし、もしかしたら炎川はそういうタイプなのかもしれない"

”手を繋ぐことは嬉しかったんだよね? 相手との全てが嫌なわけじゃないなら、相手がゆっくりで良いって待ってくれているなら、炎川の嬉しい気持ちや楽しい気持ちを相手に伝えながらもう少し時間をかけて考えてみてもいいんじゃない?もし本当に今の状態でいることが辛くなったら、そのときは友人に戻ったり、関係を変えることも考えていいと思うよ”

…と、そんな感じ。改めて見ると、特に大したことは言っていないのかもしれない。どうだろう。でも、私にとってはこの言葉が本当にありがたかった。

何がありがたかったのか

それまでも彼との話(楽しかったことや嬉しかったこと)をしていたからなのか、「彼のことを本当は好きじゃないんじゃないか」とか「そもそも何でしたくないのに付き合ったの?」と言われなかったのはまずありがたかった。私の「したいと思えない」という感覚を否定しないで聴いてくれたこと、そういうこともあるんだね、と違いの一つとして捉えてくれたことも嬉しかった。

たぶん、当時の私は「恋人だったらこうすべき」って考え方にすごく囚われていたんだと思う。1か0かの考え方になっていた。自分がアセクシャルか否か。今すぐ別れるべきなのかどうか。もしアセクシャルだとしたら彼と付き合ってはダメだったんじゃないか、私は選択を失敗してしまったんだろうか?…と。恋人はこうあるべきなんて画一のルールがあるわけじゃないのに、普通の恋人になれない、相手が求めることに応えたいのに応えたいと思えない自分が最悪にしか思えなくて(ある意味ではやっぱり”最悪”で間違いはないのだけれど)、必要以上に自分を異端で異常だと疑っていた。セクシャルマイノリティだとしたら、もう色々おしまいかもとさえ思っていた。頭が、自分を責める方向にばっかり向いていたように思う。だから、アセクシャルだから別れる/別れない」ではなく「最適な距離感を探り合う必要がある」という風に言ってくれたのが私には本当にありがたかった。ハッとした。救われたと言っても良いかもしれない。

確かにそうだと思った。友人関係であっても、ゼロ距離で触れ合ったり毎日連絡を取り合うのが楽しいと感じる人もいるし、そうじゃない人もいる。適切な距離感が人それぞれ違うことなんて、それこそ当たり前だ。好きな相手、仲の良い相手なら無理して合わせて成り立つこともあるけれど、それぞれお互いの限界や地雷はやっぱりある。だからこそ話し合ったり、地雷には触れないようにしたり、妥協をしたり、距離を置いたり、調整が必要だというだけ。

そこにセクシャリティの話が絡んだとしてもそこだけを必要以上に重たく考えなくてもよくて、そういうちょうど良い関係を、バランスを、ゆっくり探っていけばいい。たったそれだけのことだけど、私だけで考えていたらそんなことさえ気付けなかったと思う。当時ごちゃごちゃとしていた頭の中が、少しはシンプルになったように感じた。Aと長い間良い距離感を保って関係を続けられているように、彼ともお互いに納得できる関係性や距離感を見つけられたらそれが一番良い。無理なら無理で関係を変える選択もありだよって言ってくれたことも含めて、ふっと心が軽くなった。

だから本当にAには感謝している。こういうふうに自分と違う価値観の人の悩みを聞いて受け止めてくれるというのは本当にありがたいし、私も誰かが悩んでいるときにはこうありたいなって思った。

 

とは言っても難しい

と、ここまで分かったようなことを書いたけれど、その後のすり合わせ・調整がうまくいったかどうかはまた全然別の話で。正直私はまだなんにも心の整理がついていない。とりあえず結論から言うと恋人関係は解消したのだけれど、現在進行形でめちゃくちゃ悩んでいる。相手とはA以上にたくさん話し合っているので嬉しかったことも苦しく感じたことたくさんあるのだけれど、中々自分の中でもうまく言葉にできていない。ここでも核心に触れない周縁の話ばかりをしている気がする。

もう少し時を置いて、気持ちが落ち着いたときにはちゃんと整理していきたいと思う。

またAにも相談してみようかな。

今日はそんな感じでおしまいにします。では。また。

自分の指輪を自分で買って生きていく

少し前に黒い指輪を買った。右手中指につけている。ここまで読んでその意味がパッとわかる人は少ないだろうと思う。「ブラックリング」「中指」とかで検索するとすぐに出てくるので、詳しくは調べていただければ幸い。「エースリング」とかって呼ぶらしい。

 

某通販サイトで購入した安い指輪だけど、ゴールドリングの表面に艶のある黒いラインが一本塗り込まれているような少しだけ凝ったもの。かなり華奢なつくりで、強い主張をしない佇まいが気に入っている。私はまだはっきりとアセクシャルを自認をしているわけじゃないから、真っ黒一色じゃないってのも良い。一見ただの黒いリングだけど、角度を変えてみるとゴールドがチラチラと光る。かわいい。意味とか関係なくかわいい。「エースリング」については、自分の感覚を不安に思ってアセクシャルについて検索しまくっていた頃に知った。当日のうちに、ではなかったけれど、割と時を置かずに購入を決めたと思う。外出先でちょっとしたアクセサリー屋さんを覗いてみたり通販サイトを色々見た中で一番ピンときたのがこの指輪だった。海外からの配達だったから注文から到着まで1週間くらいかかって、届くまですごくそわそわした。小学生の頃に初めてCDを注文した日を思い出した。今どこを運ばれているんだろう、ああ、早く身につけたい、と思った。当時はかなり不安定で、自分のこれまでの行動を振り返ったり、恋人と関係を解消したり、私の感覚はおかしいんじゃないかとか悩みに悩んでいた時期だった。とにかく何か縋れるものが欲しかったのかなと思う。私にしては珍しく行動的だった。

 

今はオンオフ問わず、日常的にこの黒い指輪を身に付けている。ずっとではなく、服装とか気分によって付けたり外したり。周囲の人に気にしてほしいわけじゃなくて(まだ誰からも何も言われたことはない)、どちらかというと視界にこの指輪が入ってくることが自分の精神に良いから身に付けているような感覚。正直、私の職場的に指輪がOKなのかどうかは結構グレーだ。ネイルは不文律で許されているけれど、リングをしている人って注目して見てみると意外と少ない。結婚指輪くらい。でも、結婚指輪がいいなら普通の指輪だっていいよね?お世辞にも華美なアクセサリーじゃないし!と思ってる。もしちゃんとした理由があって注意されたらもちろん外す。でも、とりあえず今は私にとって身につけている方が心地いい。安心する。ひとつ前のブログで自分がアセクシャルだとしてもそれは私にとってそこまで重要じゃない、という話をしたけど、そうは言っても私の中で自分の感覚を肯定できる外的な何かが欲しかった。それが、歴戦の(?)Aceの方々が定めてくださったこの「エースリング」というシンボルなんだと思う。今もキーボードを打つ指元できらきらしてくれている。お守りみたいだ。

 

ふと思ったんだけど、もしかして、結婚指輪もそういうお守りのような機能(機能??)があるんだろうか。恋人がいたのに何を今更という感じで浅はかさがバレてしまうんだけど私は昔から結婚願望がなくて、結婚指輪や婚約指輪にもなぜか全然憧れることができなかった。薬指に指輪をはめてもらいたい〜!って感情に全然共感ができなかった。分からなかった。これは私自身の話なのでアロマアセクとは関係ないと思う。両親はそれなりに仲のいい夫婦だし家族のことは好きだから自分でもちょっと不思議だったのだけど、結婚したい、プロポーズされたい、幸せな家庭を築きたい…という考え方がどうしても自分の中で腑に落ちなかった。サプライズでめちゃくちゃ高い指輪をパカッとされて好みのデザインじゃなかったらどうするんだろう、、とか思っていた。もし指輪が欲しいのなら自分で自分の納得のいく指輪を買いたいし、好きな相手が自分のために大金を使ってくれるのだとしたらもっと二人にとって有益な買い物をしたい気がする…だなんて、ロマンチシズムのカケラもないことを思ってた。きっとそういうことじゃなくて、二人にとってのお守りのような、お互いの気持ちを形にしたようなものを手に入れたいって気持ちなんだろうね。ただ指輪が欲しいんじゃないんだよね。このことに辿り着くのにこんなにかかった時点でやっぱり私は恋愛的な心の機微に疎いんだろうな…。恋人ができればいつか結婚したくなるのかな、指輪パカッとされたくなるのかな、、と私自身も少し思っていたのだけど、やっぱり私の中にはそんな気持ちは湧いてこなくて。改めて、私が欲しかった関係性は今のところ恋人や結婚相手ではなかったのかもなぁ、って思う。私のことを考えてくれていた元恋人には本当に申し訳なくて、気付くのが本当に遅かったと思うけれど、やっぱりそれが私の今の感覚な気がする。

 

「恋人関係を求めない」って書くとなんだかすごく屈強な感じがするけれど、私は大して強い人間じゃないしメンタルもめっちゃ弱い。ひとりが好きだけど、人と関わりたい、人に助けてもらいたい、と思うことはたくさんある。ひとりで考え事をしているととても寂しい悲しい気持ちにもなる。けれど、ひとりを好む感覚、恋人を求めない性質は昔から持っていて、ずっとぼんやりとしていたけどそこは今のところ変わらないみたい。むしろ曲がらなすぎて自分でもびっくりしている。寂しいとかもったいないとか周りから言われるかもしれないけど、そんな自分をあんまり自分で否定しすぎないようにしたい。だから、とりあえず今は自分のほしい指輪を自分で買おうと思う。自分で買った指輪を身につけて、肯定する。この一件があってから、今いる友人や家族をもっと大切にしたいなと思った。私がひとりを好んでいられるのは、ひとりで平気でいられるのは、私に友人や家族がいるからだと思う。そんなことにも気付けていなかったよ。

 

自分がこれからずっとひとりでいるかは分からない。友人と暮らしたりするかも?ペットを飼うかもしれない。もしかしたら、友人とも家族とも違うしっくりくる関係性をこれから出会う人と築けるかもしれない。寂しすぎて恋人を求める…ことはよっぽどない気がするけど、もしかしたらお揃いの指輪を身に付けたいと思う相手が今後現れることも、なくはないのかもしれない。逆に、黒い指輪だけじゃなく白い指輪を左手中指に身につけようって強く思うような出来事があるかもしれない。先のことは分からないや。けれど、とりあえずは自分で買った黒い指輪を付けたり外したりしながら生きていきたいなって思います。無理せず、自分の感覚を守っていきたい。難しいかな。

アセクシャルかもしれない、の捉え方と不安

ここ最近、「自分はアセクシャルかもしれない」「アロマンティックかもしれない」という前置き付きで色んなことを考えていた。周りの人が欲しているもの(=恋愛的な体験やパートナー)を自分は欲しない性質かもしれない、そしてそれがかなりの少数派である、という気付きは私にとって衝撃すぎて、今まで素直に受け取っていた会話やシーンに対しても過剰に反応してしまうようになっていた気がするのだ。今日はそんな直近の自分の話をしたいなと思う。

 

例えば、職場の異性と話が弾んだとき。今までであれば「あ、いいな〜この人好きだな〜」とニコニコして終わりだったと思う。「最高だな〜、また話せたらいいな〜」で、終わり。なんだけど、最近の私はこういったことがあったときにすごく不安になってしまっていた。今まで気にしていなかったけど普通ならここでもしかして恋愛感情に繋がるんだろうか?とか。私の今の「いいな〜」の感覚って何?これを周りに言ったらまたすれ違いを生んでしまうんだろうか?とか。いいなと思う人はいっぱいいるのに誰とも近づきたいと思わない私って、もしかして淡白過ぎるんだろうか、普通はどう思うのが正解なんだろう!?とか。自分の感覚や行動が変なんじゃないかと過剰なまでに疑ったり、周りの「普通」を想像して不安になったりしていた。この「普通」の認識違いで人を傷つけてしまったのだから気にしないってのは難しいかもしれない。とはいえ、明らかに気にしすぎである。自分でも少し冷静になれば考えすぎだよ、、と分かるんだけど、でもそのくらいには不安定になっていた。

 

他にも気にしすぎが発生したことがあった。好きな音楽について。私はもともと恋愛モノの作品をそこまで好まないけれど、それでも好きなバンドの曲にラブソングがあったり、好きな小説や漫画に恋愛要素が含まれたりはある。そのこと自体に嫌悪感や違和感はこれまでなくて、むしろ共感して(したつもりで?)好んで読んでいたシーンとかもある。ラブソングってタイトルの好きな楽曲もある。そうなのだ、私はずっと好んで聴いていたラブソングがあって、その綴られる歌詞がとても好きだった。そのことをふと思い直した時に、アレ?と不安になってしまったのだ。私がもしもアセクシャルでアロマンティックなのだとしたら、この歌詞を本質的には理解できないままにずっと聴いていたってことになる、のか…?とか。私はこの曲を(この音楽を)好きって言っていいのか…?みたいな。自分の感覚には何か欠陥や欠落があるんじゃないか、自分は何か大切なところを間違って捉えているんじゃないか…? そんな不安がよぎって、今まで楽しめていた作品についても何だか疑心暗鬼になってしまうような現象が起きていた。

 

 

そんな不安が今もなくなったわけじゃないけれど、時間を置いて考えてみたりして少しだけ捉え方が変わってきた気がする。よく考えたら、同じ言葉や作品でも人によって定義や捉え方が違うなんてよくある話なんじゃないかということ。もちろんその定義の違いがどうしようもない断絶や悲しみに繋がることもあるから、人と共有するときには認識をすり合わせることが本当に大切だと思う。一つ前のブログで書いたけれど、恋人の「好き」と私が思っていた「好き」は違っていた。それを身をもって実感したから、私は言葉の扱いには気をつけていかなければならないと心底思っている。けど、とはいえ、私は「アセクシャル」「アロマンティック」という言葉に囚われすぎてたのかもしれない。私は性別問わず人に「いいな〜好きだな〜」と思うシーンがある。そしてその「好き」には他意がほとんどなくて、心地よさ、好意、尊敬、とかそんな感じ。人と比べて「好き」に恋慕や執着、性的な意味を含むことがかなり少ない。それが私の個人的な当たり前の感覚で、私にとっては変えようと思って今すぐ変えられるものではない。変わっていくかもしれないけど。そして、その感覚が人と共通しているかどうか、多数派か少数派かっていうのはまた別の話なんじゃないかと思う。名前がついてなきゃいけないわけじゃないし、はっきりと定義されなければダメなわけじゃない。きっと。

 

作品に触れた時の感覚についても同じで、国語の問題であれば正解があるけど、自分の中に湧き起こる感覚ってとっても個人的なものだと思う。「自分が感じたこと」って普段は外からは見えなくて、そのものが人に迷惑をかけるわけじゃないし正解もないはず。その気持ちを外に出す(人に伝える)ときに意味がすれ違わないように気をつけていければ、きっとそんなに大きな問題はならないはず。自分の素直な感覚に対して罪悪感や疑問を常に感じる必要はないんじゃなかろうか。なのに私は「マジョリティの正解」を気にしすぎていた。人と同じ感覚で楽しめているのか、作者の意図を汲んでいるのか、そういう観点ももちろんある。でも、歌詞を聴いて、作品に触れて、自分の中にある感覚になぞらえて共感すること自体は不可侵で流動的で自由なものなんじゃないだろうか。同じ曲でも聴く日によって聴こえ方って全然違うし、聴く人によっても全然違う。そこに正解不正解を過度に求める必要ってないはずだよな…。少しは整理がついてきたかもしれない。

 

もし私が本当に「アセクシャル」「アロマンティック」だったとしても、そのことだけを重たく捉える必要はないんじゃないか。ようやく、そう思えるくらいには落ち着いてきた気がする。例えばだけど、「アセクシャル」「アロマンティック」って「カレーを食べたいと思わない人」とか「海が苦手な人」とか、そのくらいの個性なんじゃないかと思い始めていて。もちろん、当人やその周りの人がカレーや海をどれだけ重要視しているかによってことの重大さは異なると思う。そう思ったときに、私は「アセクシャルであること」「アロマンティックであること」は私の生き方の中で一番真ん中に置くようなことじゃない気がするな〜、って感じて、あ、それでいいのか、と腑に落ちたというか。確かに私はそういうことに興味がないかもしれない。やりたくないことやできないことがあって、多くの人とは違うのかもしれない。でも、そのことを世界中の人に大声で伝えて回りたいわけじゃない気がする。大切な人にこっそり伝えるくらいで良い。「アセクシャル」「アロマンティック」が自分の要素の一つだと認識したとしても、自分の中の核はもっと別のところにあると思う。私が自分の暮らしの真ん中に置きたいのは「やりたくないこと」じゃなくて「やりたいこと」で、もっと自分が好きだと感じること、やりたいことで頭をいっぱいにしていきたいなって思う。最後なんだか急に綺麗事みたいになっちゃったけど、とにかく悩みすぎないで自分に素直に生きていきたいよって話でした。では。今日はここでおしまいにします。

 

 

「好き」がズレていたこと

ずっと「好き」について考えている。特に「好きな人」について。「好き」に色んな種類があることはわかっているつもりだった。恋愛的な好きとそうじゃない好きがあること。「好きな人」=「恋愛的に好きな人」を指すことが多いことも認識していた。私は恋愛への感心が薄かったけれど、それでも自分は「恋愛的に好きな人」がいたことがあると思っていた。でも、よくよく考えてみると周りが言っていた「恋愛的な好き」と私の考えていた「恋愛的な好き」はずっと前からズレていたのかもしれない。正直これを読んで共感や理解をしてくれる人がいるかどうかは自信がない。まだまとまりきっていないところも多い。でも、今回は少しだけその話をしたいなと思う。

 

子どもの頃にクラスメートから「好きな人はいる?」と聞かれたときの好き。友人のふとした言動に「ああ、好きだなぁ」ってつい笑っちゃうときの好き。異性に対して「いいな、この人好きだなぁ」と感じるときの好き。尊敬する作家やアーティストの言葉や文章に触れて「作品だけじゃなくこの人自身も好きだな」って思うときの好き。実感として、私のこれまでの人生(主語デカ)に登場してきた「好き」は1種類ではないと思う。その中でなんとなく、「異性を意識した好き」または「つい目で追ってしまうような好き」=「恋愛的な好き」だと私は線引きをしていた。恋愛対象が女性なのではないかと思ったこともちょっとあるけど、基本は男性が恋愛対象なのかなと思っていた。どちらかというと自分を「男性を異性と意識して気にしてしまうタイプ」だと思っていて、「異性として意識しながらこの人いいな、惹かれるなと思った相手」=「恋愛的に好きな人」だと思って20年以上生きてきた。

 

たぶん、上記だけであればそこまで私の認識が大きくズレているようには見えないんじゃないかと思う。「男らしくて格好良い」とか「異性として意識し始めたのは…」みたいな言い回しって恋愛関連の表現でよく見るし。だから私もずっと気付かなかった。でも、違った。「異性として意識する」が周りと私とでは全然違っていて、すっぽ抜けていることがあった。うまく言えないけれど、私の「男性を異性として意識する」っていうのは、言うなれば「外国人を外国人だと意識する」ときと同じような感覚なんじゃないかと思う。伝わるだろうか。”日本人と違ってスタイル良いなぁ、青い瞳きれいだなぁ”とか”違う文化の人だから喋るペースや内容を変えた方が喜ばれるかな”とか”外国の方と接する経験が少ないから緊張するなぁ…”みたいな。自分と異なる人種に対する憧れや注目、配慮としての「意識」。見た目の違い、体のつくりや仕組みの違い、考え方や価値観・社会的な意味や役割の違いから男性を「異なる性別の人」だな〜とは意識していたけれど、「性的な対象として見る」って意味の「意識」ではなかったんだと思う。触れたくてたまらなくなるとか、身体を見てドキドキするとか、衝動的な、リビドー的なもの?ではなかったと思う。私の「いいな」「好きだな」の中には、異性だからこそ(または恋愛対象だからこそ)の近づきたい、触れ合いたいという観点、キスをしたい、セックスをしたいという観点はほぼほぼ抜け落ちていた。そういえば、そういった行為が愛情表現であるってことにピンときていなかった。恋愛の先にそういうことがあるって知識はあったから、観点としてゼロだったかと言われたら断言はできないかもしれない。でも、思い返してみても「あーこの人といると本当に楽しい…」とか「話を聞いてほしいな、聞きたいな」とかがメインで、人間としての関心や好意はあるもののそれ以上の意味ってほぼなかった気がする。執着や独占欲、嫉妬心みたいなものも薄いから、「性的」だけじゃなくいわゆる「恋愛」の認識自体も怪しいんではないかと思い始めている。だからアセクシャルかも、アロマンティックかも、ってなってるんだけど。この人は佇まいがいいなぁ、とかは感じたことがあるけれど、それも性的な感じじゃない気がするし…。まだぼんやりしているところもあるけれど、そんな感じ。

 

前のブログにも書いたけど、このズレに気付けたのは少し前に私のことを好きだと言ってくれた人がいたから。短い間だったけど私と恋人になってくれて、本当に感謝している。そこで初めて「恋愛的な好き」と対峙したんだと思う。一番クリティカルだったのは、その人に私が思っていた「(恋愛的に)好き」の話をしたらそれは俺のと違うかもなぁ、と言われたときかもしれない。そのとき、というよりはじわじわと実感が湧いてきたのだけど、みんなで観ていた映画を私だけずっと無音で観ていたことが判明したような、ピンとこないなぁと思っていたモヤモヤの原因が急に明らかになったような、あ、私の感じていた「好き」って恋愛じゃないんだ??という衝撃があった。ようやく、他の人が言っていた「異性としての好き」「恋愛的な好き」にはそういう観点がそんなにガッツリと含まれてたのか!と認識。マジで!?全員そうなの!?ってなった。だからこんなにみんな恋人を作って結婚をして子供を産んでいくのか…とようやく長年の疑問が腑に落ちた。遅すぎるよね…、本当に鈍かった…。街を歩いていても、これ全員!?本当に!?ってなるくらいには、今もまだ驚いている。まあ全員とは言わないまでも、やっぱり大多数はそうなんだろうね。なるほど…ええ〜〜…そっか…そうなのか…、ってなっている。

 

もう少し早く気付けていたらどうだったんだろうってずっと考えている。気付くきっかけはいくらでもあった気がする。これもまたゆっくり整理したいけど、「ん?」と思う瞬間ってこれまでにいくつもあった。その時々にぼんやり流さずに周りの人の話をもっとちゃんと聞いていたら、私の認識ズレてる!って気付けたんじゃないか。でも本当に関心がなかったから。よくわからなくて避けていたから。曖昧にしてわかったフリをしていたから。気付かなった。何よりきつかったのは、周りとズレてるってこともだけど、認識が噛み合っていないまま彼の「好き」という言葉を受け入れてしまっていたこと。決定的な違いのように思えたし、申し訳ないやら情けないやらで本当に消えたくなった。でもありがたいことに、とりあえず色々すり合わせたり関係を変えたりしながら今はなんとか消えずに済んでいる。

 

 

まだ100%整理がついたわけじゃないけれど、よかったと思うこともある。この一件のおかげで、自分はこういう人間だからなぁ、と前よりは自分の輪郭がはっきりしてきたこと。今まで「恋人かぁ…いらない気がするんだよね…わからないなぁ…知らんけど…」とモヤモヤ濁してヘラヘラ曖昧に笑っていたけれど、「今の私に必要な関係性は”恋人”ではなかったんだ、私は私なりの関わり方で好きな人や好きなものを大事にしたくて、今はひとりがしっくりきているんだ」ってちょっとずつ自分の感覚を肯定できるようになってきた気がする。まだ人にはっきり伝えるのは勇気がいるけれど、そう思う。これでいいんだろうか。わからないけれど。

 

ここに書いたことはまだ誰にも伝えたことがない話だから、これが誰かに伝わる表現なのか、ここまで読んでくれる人がいるのか、かなり不安。もしかしたら自分でも後から読んだらやっぱり違うなと思うこともあるかもしれない。とりあえず、今私がぐるぐる考えているのはそんな感じ。今日はここまでにします。

この時代に生きてて良かったと思う

今日はタイトル通りのことをつらつら書こうと思う。これは別に私が今幸せだ!って話ではないし、今の時代を手放しに称賛したいわけでもない。でも、もし私が生まれるのがもう数十年早かったら、もしもっと前の時代を生きていたとしたら、私はどうなっていたんだろうって最近よく考える。つまりはSNSのない世界、ネットのない時代だったら私ってきっと今よりもっとずっと病んだんじゃないか、孤立し苦しんだんじゃないかってこと。気持ちに任せて書くので支離滅裂かもしれないけど、ちょっと勢いで言語化しておきたいなと思ったので書きます。

 

「検索したら情報が出てくる」って本当にすごくない?って思う。私がこのブログを始めたのは、アセクシャルの方のブログを読んでめちゃくちゃ共感したから。周りに打ち明けるのを躊躇うような悩みやうまく表現できない気持ちを持って困っていたときに、名前も知らない人の日記や文章、SNSの言葉にめちゃくちゃ救われました。こんな人が日本のどこかにいるんだ、自分と似た経験をした人がいて、自分と似た感覚を持つ人がいて、そしてそれをここに記した人がいるんだ。その事実だけで本当にありがたかった。自分がアセクシャルかどうかは、正直まだよく分からないと思ってる。断言したいかと言われると分からない。違う可能性もあると思う。でも、色々と疑問を持って調べる中で見つけた色んな体験記を読んで私は冗談じゃなく泣いた。ネット記事やブログだけじゃなく、そういった題材の漫画とかもヒットしたので読んでみてめちゃくちゃに泣いた。SNSとかYouTuberの方の動画とか、コミュニティ掲示板みたいなのも覗いてみた。誰かがオススメしていたので「恋せぬふたり」も観てみた。「アセクシュアルのすべて」が出てきたので買ってみた。読んだ。また泣いた。あとはアセクシャルな人と付き合っている人の知恵袋とかも見た。別れるべきでしょうか?みたいなやつ。あれも私の悩みドンピシャだったので泣いた。(泣きすぎなのは当時本当に思い詰めていたからなので見逃してほしい。)ある定義で括られた一つのカテゴリと言えども色んな例があって、色んな選択肢があることもそこで理解したと思う。本当に助かったし、当時の恋人との関係性を考えていく上でも生の声が一番参考になった気がする。まあ、まだ悩んではいるから現在進行形なんだけど。

 

もし検索するって手段がなかったら私はどうなっていただろうかと考える。今私がいる職場周りの環境は恋愛して結婚したい、って思っている人が多い。というかほとんどがそうだ。既婚者か、付き合っている人がいるか、いなくても今はいないだけで相手を探してます、みたいな。多様性に理解がないわけではないけど、結婚して子供を産んで、ってルートが当たり前の世界だ。もしその景色だけを見て生きていたときに、私が今抱えているありのままの感覚や価値観をどれだけ自分で肯定できたか正直自信がない。当たり前に流されて、違和感を飲み込んで誰かと付き合い続けたんじゃないか。本心では望んでいないのに、結婚とかして子供を産んだりしたんじゃないか。周りに共感されそうにない自分の感情なんて押し殺してしまうんじゃないだろうか。周りの当たり前に倣わなきゃって考えてみんなと同じ行動をするんじゃないだろうか…。もしかしたら違和感から文献を当たったりはしたかもしれないけど、ネットやSNSのない時代だったらこんなにスムーズに情報を得ることはきっと難しくて、かなり遠回りしただろうなと思う。または正直に打ち明けて孤立する、とかもありうるのかな。アセクシャルは100人に1人程度という情報も見たけど、多いようで少ない。クラスに1人もいないんだとしたら、社交的でない私がリアルで共感者を見つけるのはかなり至難の技だ。

 

そう考えたとき、とりあえず私はこの時代に生きてて多少幸運だったな、と思った。リアルの距離を超えて情報にアクセスできる時代でよかった。個人の意見や体験を自由に発信できる時代でよかった。少数派の小さな声にもダイレクトに触れられるツールがあって本当によかった。日々のニュースとかを見ていると、これからのことが本当に不安になる。裁判の判決とか、選挙の結果とか、経済的なこととか、憂鬱になるポイントしかないって思っちゃう。でもこの時代の良いところって今書いたようなところなのかなって私は思う。だから活用していきたい。自分の気持ちを確かめるためにも。

誰も自分を殺さなくてすむ時代になってほしいな。

 

【追記】文末表現が乱れていたので一部修正しました。2022.7.22

誰かの普通と私の違和感

恋人ができて、少し前にお別れをした。初めてだった。人に好かれるということ自体が初めてだったと思う。そして、初めて自分がマイノリティである可能性を自覚した。アセクシャルかもしれないこと、アロマンティックかもしれないこと。まだはっきりとは言えないから「かもしれない」としておくけれど、とにかく今まで私が視野に入れていなかった「当たり前」や「普通」と対峙してめちゃくちゃ悩んだ。その話を少しだけ書き残しておきたいなと思う。

 

ひとつ前のブログで書いたとおり私は昔から恋愛ごとに関心が薄くて、恋人が欲しい・結婚したいという感情が20代半ばにしてほぼ無い状態だった。そしてその感覚を「普通」だと思っていて、恋人を作り結婚していく同世代や職場の人を見ても「そっか〜この人も結婚したいのか〜凄いなァ」なんて他人事に眺めている程度で、本当にどうでもよかったのだ。仕事の悩みでいっぱいいっぱいだったし、打ち込みたい趣味もあったし、異性に好かれるタイプでもない。人肌恋しくもない。私は一人で生きていくんだとずっと思っていてそれが当たり前だったから、ただ自分の生活を整えようと必死だった。

 

 

告白してくれた人とは考え方や好きなものが近しくて、コミュニケーションを避けがちな私がなぜかどうでもいいことを共有したり、ちょっとした気持ちを打ち明けることができる相手だった。私と全く違う趣味や価値観を持ち合わせていて、それも新鮮に映った。嘘偽りなく私は相手に関心を持っていたし、彼と会う日を楽しみに過ごしていた。本当に優しい人だった。でも、付き合いたい、と言われた私が感じたのは「やっぱりそうなのか」と「なんで恋人に?」だったと思う。彼とは一緒にいたい気がする、でも恋人になるって何??って気持ち。今のままで良い気がするけど…でも彼は付き合いたいと言っている…。できることなら「はい」も「いいえ」も言いたくなかった。彼が誰でもいいから彼女を作りたい!とか今すぐホテルに行ってヤリたい!みたいな人だったならすぐにでも断って逃げ出していたと思う。でもそんな人ではなかったし(まずそんな人は私に目を向けないだろう)、ここでいいえと答えてこの人との関係がここでバサっと終わったり、一緒にいて楽しいって気持ちはお互いに同じはずなのに急にここで嫌な記憶に塗り替えられてしまうのだけは私が嫌だと思った。だから、これまで恋愛に興味がなかったこと、自分は一人で生きていくんだと思っていたこと、だから今どうしようか答えがすぐ出せない、、みたいなことをなんとか伝えた。

 

貴方にとって付き合うってどういうこと?みたいな話もした。私はよく分からない…と。でも、そこで彼が言った返答は、それなら付き合うって素敵かも、とこんな私でも思うような言葉選びだった。この時点でもっと色々気付けていたらどうだったんだろう?と今になって思うけど、彼と話をしながら私は少し期待をしてしまった。この人となら私も「恋人」や「恋愛」ができるのでは?もしかしていつかは結婚願望も湧くのかな?なんて。言うならば、スポーツに興味はないけど好きな人に誘われたからやってみようかな、この人となら楽しめるかも!みたいな。軽すぎるかもしれないけど、彼が言うならやってみてもいいかも、できるか試すなら彼だ、と思ったのは正直な気持ちだった。

 

そしてお付き合いをした。自分が相手の恋人である、という違和感は始めからずっとあって、相手が言葉で好意を伝えてくれても中々同じように返すことは出来なかった。でも、楽しくなかったと言ったら嘘になる。証拠としてものすごい勢いで体調が良くなり体重も増えた。相手のことを知っていくのは楽しかったし、思い出も増えていった。彼の好きそうなものを選んで贈ったり、良い音楽を見つけたら勧めたりした。彼といるときも離れているときも、やたらニコニコしていたと思う。服を買ったりマメに美容院に行くようになったからか、珍しく職場で容姿を褒められることまであった。本当にこれでいいのか、私でいいのか、私はうまくやれてるのか…なんて不安や疑念は拭えなかったけど、彼と過ごす中で幸せに感じた瞬間や心地よい時間は本当にいくつもあって、大事にしたいと心から思った。だからこそこの不安や違和感も次第に薄れていくんじゃないかと思っていた。

 

でも、いくら経っても私は「恋人だからできること」「恋人なら普通やりたいと感じること」には積極的になれなかった。悩みを聴くこと、最近あった話をすること、出掛けること、同じ時間を過ごすことだけで十分だった。好きだと言い合うこと、手を繋いだり触れ合うこと、そしてそれ以上の接触はいつまで経ってもしたいと思えなかった。楽しさで紛らわしていたけど、薄々おかしいと思い始めた。私は相手を好きじゃないのか?私がおかしいのか?悩みつつ隠して過ごした。後から聞いたら彼は私が内気な性格なんだな、と捉えていたらしい。そして数ヶ月して彼から「炎川のペースを尊重するけど、俺はもっと近づきたいと思っている(意訳)」と言われたとき、「とうとう来てしまった」「だめかも、やっぱりしたい気持ちが湧かないよ」と思ってしまった。当初ボディタッチも少ないタイプだったからもしかしてそういう欲求がない人?と初めはほのかに期待したりもしたのだけれど、彼にとっての恋人がそういう行為を伴うものだということはお付き合いをしていく中でもう分かっていた。そう思ってるだろうなというのは一緒にいてすごく感じていたし応えたいって気持ちはあった。喜んでくれるだろうし。普通のことだ、恋人だし。そして「恋人=触れ合う、そういう行為をする」は世間一般の当たり前でもある、そのくらいは知ってる。でも、したいと思えない。あ、やばい、外れているのは私だ、間違っているのは私じゃんって思った。アセクシャルって言葉は知識としてなんとなく知っていた。告白されたときにももしかしたら?と少し頭をかすめた言葉だった。まあでも私好きな人いたことあるし(※この話もいずれしたい)、恋愛に関心がなかっただけかもしれないからまだ分からないよな、と保留にしていた。でも、ここにきてこれは「ぽい」な??と思った。だめだ、もしかして私は好きじゃないのに彼の恋人になってしまったことになるの??と思ってハッとした。全部わからなくなった。

 

その違和感を確かめてすり合わせて相手に共有していく作業は本当にキツくて、せっかく増えた体重が戻ってしまうほどだった。この話については別のタイミングでゆっくり書こうと思う。中途半端だけど、ここで休憩します。では。

 

 

恋愛のステージに立ったことがなかった

恋バナというものが昔から苦手だった。両親は私のそんな性質を察していたのかそういう話をほとんど振らなかったけど、幼稚園か小学生くらいの頃に親戚に「好きな子はいないの?」と訊かれて「そんな話振らないでくれ、誰が話すかよ!」と幼心に思った記憶がある。学生時代にクラスメートの中で恋バナが始まったら必死に自分の存在感を消して聞き役に回るか、そっと輪から立ち去るかの二択だった。自分の話をしたことはほとんどなかった。異性にモテるタイプでなかったこともある。恋愛というのは自分が口にすべき話題ではなく魅力のある可愛い女の子たちのためのものだと思っていた。

 

幼稚園から小中高、大学に進む中で好ましいと思う異性が全くいなかったわけではない。好ましいな、良いなと思う異性は「好きな人」だと認識していたし、異性だけでなく同性でもいいなと思う人がいたら「好きだなぁ」と思ってニコニコしていた。でもそれを本人に伝えることはしなかったし、周りに打ち明けることもほぼなかった。好きな人を明かすと「その人以外は好きじゃない」という意味になってしまうんじゃないか?ということを小学生あたりから疑問に思っていた気がする。Aくんのことを好ましく感じているけど、だからってBくんやCくんのことを嫌いなわけではない。「炎川はAくんが好き」だと周りに伝わったらAくんはどう思う?BくんやCくんはどう思う?「好きな人」を一人に決めて発信するのってメリットなくない?どうして順位をつけないといけないんだろう?…みたいなことを考えていた。揉め事も苦手だったから、例えばDちゃんがAくんを好きだと言っている時に私もAくんが好きだと言ったら敵対視されたりするんでしょ?そこまでしてAくんが好きだと主張したくないよ…何でそんなに好きだと伝えることにこだわるんだろう…とかも思っていた気がする。ここまで読んでいただいた時点で大多数の方は違和感に気付かれるだろう。私も今振り返ると明らかに周りと感覚がズレていたんだろうなと思う。でもその疑問さえ口にしなかったから、周りが言っている「好きな子」「好きな人」と私が認識している「好きな子」「好きな人」の意味合いが違うということにはずっと気が付かなかった。

 

同性ばかりの地味なグループに属してほぼ異性との関わりがなかった中学・高校。女性比率の高い学部に入学した大学時代。その時々で私の中で「好きな人」と呼べる存在がたま〜に現れたりはしたものの、誰かに告白することもされることもなく卒業して社会人になった。恋人はいなかったけれど、私には居心地の良い関係性の同性の友人が数人いることで充分だったし、好きな趣味もあった。趣味関連でちょっとしたネット上のコミュニティも持っていた。周囲に恋愛をする人間がゼロというわけではなかったけれど、意識に上がることがほとんどないと言ってしまっていいくらいには恋愛から遠ざかっていた気がする。そう、社会人になって異性に告白されるという初の恋愛イベント(?)が起こるまで私は恋愛のステージに立ったことがなかった。私って周りと違う気がするな、と感じる細かい出来事はそれまでにいくつもあったものの、自分は恋愛ごとに関心が薄いだけの普通の人間だと思って過ごしていた、「好きな人」もいたし。そうして恋愛の当事者になって人と関わってみて初めて、ようやく自分と周りの認識の違いを自覚した。その発見はここまで記述した過去の思い出が白から黒に塗り替えられるような強い衝撃で、正直かなりショックだった。めちゃくちゃ悩んだし、相手にもひどいことをしてしまった。その話はまたにしようと思う。とりあえず、ステージに立つまではそんな感じで私は生きてきたよ、という話でした。