炎川沿線

右手中指に黒い指輪をしたり、外したり。

アセクシャルかもしれない、の捉え方と不安

ここ最近、「自分はアセクシャルかもしれない」「アロマンティックかもしれない」という前置き付きで色んなことを考えていた。周りの人が欲しているもの(=恋愛的な体験やパートナー)を自分は欲しない性質かもしれない、そしてそれがかなりの少数派である、という気付きは私にとって衝撃すぎて、今まで素直に受け取っていた会話やシーンに対しても過剰に反応してしまうようになっていた気がするのだ。今日はそんな直近の自分の話をしたいなと思う。

 

例えば、職場の異性と話が弾んだとき。今までであれば「あ、いいな〜この人好きだな〜」とニコニコして終わりだったと思う。「最高だな〜、また話せたらいいな〜」で、終わり。なんだけど、最近の私はこういったことがあったときにすごく不安になってしまっていた。今まで気にしていなかったけど普通ならここでもしかして恋愛感情に繋がるんだろうか?とか。私の今の「いいな〜」の感覚って何?これを周りに言ったらまたすれ違いを生んでしまうんだろうか?とか。いいなと思う人はいっぱいいるのに誰とも近づきたいと思わない私って、もしかして淡白過ぎるんだろうか、普通はどう思うのが正解なんだろう!?とか。自分の感覚や行動が変なんじゃないかと過剰なまでに疑ったり、周りの「普通」を想像して不安になったりしていた。この「普通」の認識違いで人を傷つけてしまったのだから気にしないってのは難しいかもしれない。とはいえ、明らかに気にしすぎである。自分でも少し冷静になれば考えすぎだよ、、と分かるんだけど、でもそのくらいには不安定になっていた。

 

他にも気にしすぎが発生したことがあった。好きな音楽について。私はもともと恋愛モノの作品をそこまで好まないけれど、それでも好きなバンドの曲にラブソングがあったり、好きな小説や漫画に恋愛要素が含まれたりはある。そのこと自体に嫌悪感や違和感はこれまでなくて、むしろ共感して(したつもりで?)好んで読んでいたシーンとかもある。ラブソングってタイトルの好きな楽曲もある。そうなのだ、私はずっと好んで聴いていたラブソングがあって、その綴られる歌詞がとても好きだった。そのことをふと思い直した時に、アレ?と不安になってしまったのだ。私がもしもアセクシャルでアロマンティックなのだとしたら、この歌詞を本質的には理解できないままにずっと聴いていたってことになる、のか…?とか。私はこの曲を(この音楽を)好きって言っていいのか…?みたいな。自分の感覚には何か欠陥や欠落があるんじゃないか、自分は何か大切なところを間違って捉えているんじゃないか…? そんな不安がよぎって、今まで楽しめていた作品についても何だか疑心暗鬼になってしまうような現象が起きていた。

 

 

そんな不安が今もなくなったわけじゃないけれど、時間を置いて考えてみたりして少しだけ捉え方が変わってきた気がする。よく考えたら、同じ言葉や作品でも人によって定義や捉え方が違うなんてよくある話なんじゃないかということ。もちろんその定義の違いがどうしようもない断絶や悲しみに繋がることもあるから、人と共有するときには認識をすり合わせることが本当に大切だと思う。一つ前のブログで書いたけれど、恋人の「好き」と私が思っていた「好き」は違っていた。それを身をもって実感したから、私は言葉の扱いには気をつけていかなければならないと心底思っている。けど、とはいえ、私は「アセクシャル」「アロマンティック」という言葉に囚われすぎてたのかもしれない。私は性別問わず人に「いいな〜好きだな〜」と思うシーンがある。そしてその「好き」には他意がほとんどなくて、心地よさ、好意、尊敬、とかそんな感じ。人と比べて「好き」に恋慕や執着、性的な意味を含むことがかなり少ない。それが私の個人的な当たり前の感覚で、私にとっては変えようと思って今すぐ変えられるものではない。変わっていくかもしれないけど。そして、その感覚が人と共通しているかどうか、多数派か少数派かっていうのはまた別の話なんじゃないかと思う。名前がついてなきゃいけないわけじゃないし、はっきりと定義されなければダメなわけじゃない。きっと。

 

作品に触れた時の感覚についても同じで、国語の問題であれば正解があるけど、自分の中に湧き起こる感覚ってとっても個人的なものだと思う。「自分が感じたこと」って普段は外からは見えなくて、そのものが人に迷惑をかけるわけじゃないし正解もないはず。その気持ちを外に出す(人に伝える)ときに意味がすれ違わないように気をつけていければ、きっとそんなに大きな問題はならないはず。自分の素直な感覚に対して罪悪感や疑問を常に感じる必要はないんじゃなかろうか。なのに私は「マジョリティの正解」を気にしすぎていた。人と同じ感覚で楽しめているのか、作者の意図を汲んでいるのか、そういう観点ももちろんある。でも、歌詞を聴いて、作品に触れて、自分の中にある感覚になぞらえて共感すること自体は不可侵で流動的で自由なものなんじゃないだろうか。同じ曲でも聴く日によって聴こえ方って全然違うし、聴く人によっても全然違う。そこに正解不正解を過度に求める必要ってないはずだよな…。少しは整理がついてきたかもしれない。

 

もし私が本当に「アセクシャル」「アロマンティック」だったとしても、そのことだけを重たく捉える必要はないんじゃないか。ようやく、そう思えるくらいには落ち着いてきた気がする。例えばだけど、「アセクシャル」「アロマンティック」って「カレーを食べたいと思わない人」とか「海が苦手な人」とか、そのくらいの個性なんじゃないかと思い始めていて。もちろん、当人やその周りの人がカレーや海をどれだけ重要視しているかによってことの重大さは異なると思う。そう思ったときに、私は「アセクシャルであること」「アロマンティックであること」は私の生き方の中で一番真ん中に置くようなことじゃない気がするな〜、って感じて、あ、それでいいのか、と腑に落ちたというか。確かに私はそういうことに興味がないかもしれない。やりたくないことやできないことがあって、多くの人とは違うのかもしれない。でも、そのことを世界中の人に大声で伝えて回りたいわけじゃない気がする。大切な人にこっそり伝えるくらいで良い。「アセクシャル」「アロマンティック」が自分の要素の一つだと認識したとしても、自分の中の核はもっと別のところにあると思う。私が自分の暮らしの真ん中に置きたいのは「やりたくないこと」じゃなくて「やりたいこと」で、もっと自分が好きだと感じること、やりたいことで頭をいっぱいにしていきたいなって思う。最後なんだか急に綺麗事みたいになっちゃったけど、とにかく悩みすぎないで自分に素直に生きていきたいよって話でした。では。今日はここでおしまいにします。