炎川沿線

右手中指に黒い指輪をしたり、外したり。

「好き」がズレていたこと

ずっと「好き」について考えている。特に「好きな人」について。「好き」に色んな種類があることはわかっているつもりだった。恋愛的な好きとそうじゃない好きがあること。「好きな人」=「恋愛的に好きな人」を指すことが多いことも認識していた。私は恋愛への感心が薄かったけれど、それでも自分は「恋愛的に好きな人」がいたことがあると思っていた。でも、よくよく考えてみると周りが言っていた「恋愛的な好き」と私の考えていた「恋愛的な好き」はずっと前からズレていたのかもしれない。正直これを読んで共感や理解をしてくれる人がいるかどうかは自信がない。まだまとまりきっていないところも多い。でも、今回は少しだけその話をしたいなと思う。

 

子どもの頃にクラスメートから「好きな人はいる?」と聞かれたときの好き。友人のふとした言動に「ああ、好きだなぁ」ってつい笑っちゃうときの好き。異性に対して「いいな、この人好きだなぁ」と感じるときの好き。尊敬する作家やアーティストの言葉や文章に触れて「作品だけじゃなくこの人自身も好きだな」って思うときの好き。実感として、私のこれまでの人生(主語デカ)に登場してきた「好き」は1種類ではないと思う。その中でなんとなく、「異性を意識した好き」または「つい目で追ってしまうような好き」=「恋愛的な好き」だと私は線引きをしていた。恋愛対象が女性なのではないかと思ったこともちょっとあるけど、基本は男性が恋愛対象なのかなと思っていた。どちらかというと自分を「男性を異性と意識して気にしてしまうタイプ」だと思っていて、「異性として意識しながらこの人いいな、惹かれるなと思った相手」=「恋愛的に好きな人」だと思って20年以上生きてきた。

 

たぶん、上記だけであればそこまで私の認識が大きくズレているようには見えないんじゃないかと思う。「男らしくて格好良い」とか「異性として意識し始めたのは…」みたいな言い回しって恋愛関連の表現でよく見るし。だから私もずっと気付かなかった。でも、違った。「異性として意識する」が周りと私とでは全然違っていて、すっぽ抜けていることがあった。うまく言えないけれど、私の「男性を異性として意識する」っていうのは、言うなれば「外国人を外国人だと意識する」ときと同じような感覚なんじゃないかと思う。伝わるだろうか。”日本人と違ってスタイル良いなぁ、青い瞳きれいだなぁ”とか”違う文化の人だから喋るペースや内容を変えた方が喜ばれるかな”とか”外国の方と接する経験が少ないから緊張するなぁ…”みたいな。自分と異なる人種に対する憧れや注目、配慮としての「意識」。見た目の違い、体のつくりや仕組みの違い、考え方や価値観・社会的な意味や役割の違いから男性を「異なる性別の人」だな〜とは意識していたけれど、「性的な対象として見る」って意味の「意識」ではなかったんだと思う。触れたくてたまらなくなるとか、身体を見てドキドキするとか、衝動的な、リビドー的なもの?ではなかったと思う。私の「いいな」「好きだな」の中には、異性だからこそ(または恋愛対象だからこそ)の近づきたい、触れ合いたいという観点、キスをしたい、セックスをしたいという観点はほぼほぼ抜け落ちていた。そういえば、そういった行為が愛情表現であるってことにピンときていなかった。恋愛の先にそういうことがあるって知識はあったから、観点としてゼロだったかと言われたら断言はできないかもしれない。でも、思い返してみても「あーこの人といると本当に楽しい…」とか「話を聞いてほしいな、聞きたいな」とかがメインで、人間としての関心や好意はあるもののそれ以上の意味ってほぼなかった気がする。執着や独占欲、嫉妬心みたいなものも薄いから、「性的」だけじゃなくいわゆる「恋愛」の認識自体も怪しいんではないかと思い始めている。だからアセクシャルかも、アロマンティックかも、ってなってるんだけど。この人は佇まいがいいなぁ、とかは感じたことがあるけれど、それも性的な感じじゃない気がするし…。まだぼんやりしているところもあるけれど、そんな感じ。

 

前のブログにも書いたけど、このズレに気付けたのは少し前に私のことを好きだと言ってくれた人がいたから。短い間だったけど私と恋人になってくれて、本当に感謝している。そこで初めて「恋愛的な好き」と対峙したんだと思う。一番クリティカルだったのは、その人に私が思っていた「(恋愛的に)好き」の話をしたらそれは俺のと違うかもなぁ、と言われたときかもしれない。そのとき、というよりはじわじわと実感が湧いてきたのだけど、みんなで観ていた映画を私だけずっと無音で観ていたことが判明したような、ピンとこないなぁと思っていたモヤモヤの原因が急に明らかになったような、あ、私の感じていた「好き」って恋愛じゃないんだ??という衝撃があった。ようやく、他の人が言っていた「異性としての好き」「恋愛的な好き」にはそういう観点がそんなにガッツリと含まれてたのか!と認識。マジで!?全員そうなの!?ってなった。だからこんなにみんな恋人を作って結婚をして子供を産んでいくのか…とようやく長年の疑問が腑に落ちた。遅すぎるよね…、本当に鈍かった…。街を歩いていても、これ全員!?本当に!?ってなるくらいには、今もまだ驚いている。まあ全員とは言わないまでも、やっぱり大多数はそうなんだろうね。なるほど…ええ〜〜…そっか…そうなのか…、ってなっている。

 

もう少し早く気付けていたらどうだったんだろうってずっと考えている。気付くきっかけはいくらでもあった気がする。これもまたゆっくり整理したいけど、「ん?」と思う瞬間ってこれまでにいくつもあった。その時々にぼんやり流さずに周りの人の話をもっとちゃんと聞いていたら、私の認識ズレてる!って気付けたんじゃないか。でも本当に関心がなかったから。よくわからなくて避けていたから。曖昧にしてわかったフリをしていたから。気付かなった。何よりきつかったのは、周りとズレてるってこともだけど、認識が噛み合っていないまま彼の「好き」という言葉を受け入れてしまっていたこと。決定的な違いのように思えたし、申し訳ないやら情けないやらで本当に消えたくなった。でもありがたいことに、とりあえず色々すり合わせたり関係を変えたりしながら今はなんとか消えずに済んでいる。

 

 

まだ100%整理がついたわけじゃないけれど、よかったと思うこともある。この一件のおかげで、自分はこういう人間だからなぁ、と前よりは自分の輪郭がはっきりしてきたこと。今まで「恋人かぁ…いらない気がするんだよね…わからないなぁ…知らんけど…」とモヤモヤ濁してヘラヘラ曖昧に笑っていたけれど、「今の私に必要な関係性は”恋人”ではなかったんだ、私は私なりの関わり方で好きな人や好きなものを大事にしたくて、今はひとりがしっくりきているんだ」ってちょっとずつ自分の感覚を肯定できるようになってきた気がする。まだ人にはっきり伝えるのは勇気がいるけれど、そう思う。これでいいんだろうか。わからないけれど。

 

ここに書いたことはまだ誰にも伝えたことがない話だから、これが誰かに伝わる表現なのか、ここまで読んでくれる人がいるのか、かなり不安。もしかしたら自分でも後から読んだらやっぱり違うなと思うこともあるかもしれない。とりあえず、今私がぐるぐる考えているのはそんな感じ。今日はここまでにします。